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プジョー204の思い出 奥島 孝康氏

 1976年8月1日早朝、私はパリ大学交換研究員として、一句も解せないフランス語会話に対する不安を胸にしながら、家族4人でパリに着いた。そして、最初にしたことは、会話のためにアリアンス・フランセーズの初級クラスへの登録と、運転を学ぶためにオート・エコールへの申し込みとであった。

 会話学校も楽しかったが、自動車学校はもっと楽しかった。なにしろ、フランス語はまったく話せないのであるから、すべてカンで対応するしかない。練習はいきなり街路であったから、やたらに「クダイ、クダイ」といわれた。しかし、どんなにいわれても初日はなにもわからなかったのであるから、いまにして思えば、実に危険であり、モニトール(教官)は気が気ではなかったことであろう。それでも、二日目にはそれが「ク・ダイユ」のことであることがわかったし、凱旋門のあるエトワール広場のロンボワン(フランスに多い放射状道路の中心円環路)からの強気の脱出方法とか、下手な運転をしている車を追い抜く際、窓を開けて「ペイザン(どん百姓)!」という罵声のあびせ方など、実に実用的(?)な運転術を学ぶことができた。

 さて、なんとかフランス人なみの速さで免許(ペルミ)を取得した後、オート・エコールで練習に使用した「プジョー204」とまったく同じ車を入手して乗ることになったので、最初から実に快適であった。問題は、入手した車が走行距離30万キロを超えた中古車だったため、故障が多いことであったが、それがまた楽しい思い出につながっている。なんの装備もなく、スイスの峠や雪のピレネー越えなど、いま考えるとよくぞやれたものだと空恐ろしくなる。加えて、ダイナモがいかれたり、ファンベルトが切れたり、バンパーがめくれたりもしたが、そのたびに見知らぬ親切な人がかけつけてきて難を免れた。

 初恋(?)と同じで、車といえば、いつも「プジョー・ドゥ・サン・カトル」は、当時のさまざまな思い出とともに、一気に私の胸を熱くしてくれるのである。
(2002年『JAHFA No.2』収録)

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