世界のホンダを陰で支えた藤沢武夫氏

 天才の思考はあくまで自由奔放、その才能のおもむくままに理想を追う。そして天才の理想から生じる成果を事業化し、社会に普遍化するための手段にまでは、さしもの天才の才能も遠く及ばない。

 この「天才」という言葉をそのまま技術家と置き換えても良いであろう。天才の夢を社会に定着させ具体化させるには、また別種の実務的な才能を必要とする。優れた技術家と有能な実務家が結び付けば、大きな成果を挙げることも夢ではない。しかし、そうした巡り会いは滅多にあるものではない。

 天才肌の人物は往々にして気侭で我が侭で奇矯な振るまいも多い。その天才の才能を引き出し易い環境を作り、生み出した成果によって事業化を図り成功させ、己は陰に回って総てを支えてゆける人などそう居るものではなく、実務家と異能の天才同士の、しかも互いに気心の合う組み合わせが、もし仮にあったとしても、それはもう運命としか言いようがないであろう。本田技研工業はその希有な巡り会いによって生まれた。

 昭和20年以降は戦後の混乱期にあり、あらゆる物品が不足していて、物は作る端から売れていく状況があり、それがある期間続いた。モーターサイクルも同様であった、当時の日本には関西や中京地区を中心に、いわゆる専業メーカーが多く存在した。フェンダー、フュエルタンク、フォーク、車輪、エンジンなどの製作所であった。小規模の改造なら特注品も作ってくれるし、それらを買い集めて組み立てれば、モーターサイクルは作ることができた。部品を集めさえすればいくらでも2輪車が作れたのである。そうした零細な2輪メーカーが、戦後のわが国には一時期には二百数十社も存在した。

 しかし世情が落ち着き、製品に独自性や耐久性が求められるようになると、その種の零細メーカーは徐々に淘汰されていった。モーターサイクルのメーカーとして、独自性のある製品を作れる有力なメーカーの誕生が待たれていた。その頃ホンダの出生地と同じ浜松には、独自の商品思想を持つ有力なメーカーが存在していた。「浜松ぽんぽん物語り」というタイトルでNHKの番組で放送されたからご記憶の方もいられるかも知れない。

 本田宗一郎氏とは別の優れたキャラクターを持つ技術者が統率する企業であった。そこで作られていたモーターサイクルは性能も優れ何よりデザインが素晴しかった。しかし、ホンダが発展してゆくと反比例して、その社業は凋落していった。何故か、物がない時代に作れば売れた環境のなかで、大量生産品を効率良く販売するシステム作りの意識がなかったし、こちらの経営者は「良いものを作りさえすれば、それだけで売れるはず」との理想主義で商品の流通には無頓着であった。経営体質としては財務基盤も脆弱に過ぎた、つまりこの企業にもし藤沢武夫氏のような人物がいたなら、ホンダに比肩し得る企業に育ったかも知れない。

 藤沢武夫氏の役割りと功績については、これ以上の言は不要であろう。各社が国内だけの対応に精一杯であった1962年には、ベルギーに2輪車の組立工場を建設し、グローバル化への先鞭も付けている。時には文化面で本田宗一郎氏に的確な助言もし、未来の自動車文化のための投資も惜しまなかった。三重県のスズカ・サーキット建設はホンダイズムの具体化事業として藤沢武夫氏の決断によって実現した。

 常に本田宗一郎氏を引き立て、しかも経営の基盤を作り裏から支えた藤沢武夫氏は昭和48年10月、本田宗一郎氏と共に惜しまれながらの引退。本田氏66歳、藤沢氏62歳の若過ぎる潔い引き際であった。
(猪本義弘)


1973年、本田宗一郎氏と。
1962〜1963年頃、
アメリカでの販売活動


藤沢武夫氏 略歴
明治43年(1910) 11月10日 生まれる
昭和3年(1928) 3月 京華中学校 卒業
昭和24年(1949) 10月 本田技研工業(株)常務取締役として入社
昭和27年(1952) 4月 専務取締役に就任
昭和39年(1964) 4月 取締役副社長に就任
昭和48年(1973) 10月 取締役副社長を退任、取締役最高顧問に就任
昭和58年(1983) 10月 同取締役を退任、最高顧問に就任
昭和63年(1988) 12月30日 没 享年78歳