本田宗一郎氏とモータースポーツ
本田宗一郎氏の人となりや、その業績について今さら語るまでもないであろう。明治39年11月、天竜市の鍛冶屋の長男に生まれた機械好きな少年が、自転車に取り付ける補助エンジンから始めて、モーターサイクル製造へと進出、やがて世界的なメーカーにまで育て上げていった。
1945年(昭和20年)折からの第二次世界大戦に敗北した日本は、京都を除く多くの都市は爆撃によって灰燼に帰し、廃虚のなかから復興に取り組まなければならなかった。軍用通信機用のエンジンを流用した原動機付き自転車は、その混乱期に多く愛用され重宝された。しかしその混乱の時期に、敗戦によって仕事をなくした多くの企業は、こうした原動機付き自転車の分野にも多く進出したが、その総てが成功した訳ではなかった。本田宗一郎氏の絶えない好奇心と貪欲な技術への追求心が、企業を発展させる基盤となったことに間違いはない。
当時モーターサイクルの分野は、日本と海外企業の製品の間には圧倒的な技術力の差があった、特に欧州には多くの優れたモーターサイクルが存在していた。これらに追い付き追いこし、やがては世界中で愛用される製品でありたい、そうした目標を実現するための手段として、本田宗一郎氏が選んだ方策がモーターサイクル・レースへの出場であった。日本にも早くから浅間火山レースなどの催しもあったが、ホンダは国際レースの場でなければ意味がないと考えていた。技術を進歩させて行くには先進しているモーターサイクルの技術レベルに先ずは並び、やがては強力なライバル群を凌駕してゆく。これらは決して生易しいことではない、しかしホンダは敢えて困難に挑戦していった。
昭和29年(1954)3月ブラジル・サンパウロで開催された国際オートレースでは、ドリームR125型で13位。これを手始めとして毎年6月に開催されていた、世界の強剛が出場するマン島のTTレースに昭和34年念願の初出場、この年ホンダRC141で6、7、8位でティーム賞を獲得した。マン島はイギリス本土とアイルランドの中間に浮かぶ小島で、ここで開催されていたTT(トゥーリスト・トロフィー)レースは、当時の2輪メーカーの威信をかけて争う場であった。翌昭和35年(1960)には250cc、125ccとも5位までを独占しての完勝、TTレースに出場して3年目での優勝であった。
その後4輪車の生産に踏み切った本田技研工業はF-1レースにも出場を表明、マシーンは横置きタイプの12気筒エンジン、エンジンと一体型の並列軸式のトランスミッション配置という、まるでモーターサイクルのようなレイアウトであった。このRA271で1964年8月2日、ドイツ・グランプリに初参戦、9月2日モンツアでのイタリアGPへ出場したが戦果は挙げられなかった。しかし翌年の1965年のF-1シーズン、2戦目のモナコGPから参戦し最終戦のメキシコGPにおいて遂に優勝、ドライバーはリッチー・ギンサーであった。その他F-2レースにも参戦し1966年にはブラバム/ホンダ快走の11連勝の快挙も成し遂げている。
まだ技術も未熟な段階から積極的に世界レースに挑戦、あくまで技術の成果をあげるためのコンペティションではあったが、並みの経営者では当時思いもよらぬ発想であったに違い無い。またその副次的な効果として、日本の若者にレースの楽しさを教え、世界にその目を向けさせ多くの人々に希望を持たせた。自分の夢に生きた天衣無縫の巨人、それが本田宗一郎その人とレース活動の意味するところであった。
(猪本義弘)