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明治維新以降の工業近代化で、日本が世界に示せた商品は、雑貨類を別にすれば、それは繊維品であった。繊維品そのものも多く輸出されたが、やがて繊維織機が日本の工業輸出の花形となった。その名残はいまだに残っていて、機械工業や学術分野の序列では、繊維機械が上位に位置する。スズキも繊維織機の製造から自動車に転じた企業のひとつである。戦後の疲弊した社会状況の中で、簡便な庶民の足として、スズキは織機製造からこの分野へ転身を図った。大正9年(1920)に織機メーカーとして発足した鈴木式織機株式会社は昭和27年(1952)にバイクモーター(2サイクル36cc)「パワーフリー号」を発売し二輪車事業に転身した。製品も「ダイヤモンドフリー号」を経て本格的二輪車「コレダ号」へと進化し、昭和29年(1954)には社名も鈴木自動車工業株式会社に変更した。これが現スズキ株式会社のスタートでもある。 鈴木修氏がスズキに入社されたのは昭和33年(1958)のことであった。軽自動車の原点になる「国民車育成要綱」を通商産業省が発表したのは昭和30年(1955)のことであったが、所得倍増計画など「もはや戦後ではない」といわれた日本は、ようやく自動車が個人の物となりはじめていた。そのなかで国民車=軽自動車は人々の関心を受け、昭和45年(1970)には123万台を販売しピークを迎える。しかし、高度成長期の中で経済的余裕が生まれ、より大きな小型自動車へ需要は移行する。また、軽四輪免許の廃止(昭和43年)や産経懇が軽自動車不要論を出すなどに加え、排ガス規制も加わり、軽自動車の販売は昭和50年(1975)には56万台に落ちこむ。 昭和53年(1978)に48歳で鈴木氏が社長に就任した鈴木自動車工業は、その翌年に乗用車的感覚のライトバン、アルトを発売する。アルトは第一次(昭和48年)、第二次(昭和54年)のオイルショックを経て経済性の面から見直されつつあった軽自動車の代表として、また、全国統一の47万円という低価格も受けて爆発的な販売を記録することになる。アルトで第一次軽ブームを作ったスズキは、さらに平成5年(1993)、全く新しいカテゴリーの軽乗用車ワゴンRを発売して第二次軽ブームを作る。ワゴンRは乗用車的なバンであったアルトとは逆に、箱型で空間の広い乗用車であったが、バブル崩壊後急激に落ち込んでいた販売を回復させ、ワゴンRタイプの車がその後の軽自動車の主流となった。現在の軽自動車は平成10年(1998)の規格改定により、幅・長さが大きくなると同時に安全性も小型車と同等となり、もはや「ワンランク下」の車ではなくなった。 このように鈴木氏は軽自動車一筋に40年余闘い続けている。時代のニーズにも支えられ、全自動車販売台数の30%を占めるまでに軽自動車を成長させ、不動の地位に押し上げた。この日本国内での小さな車づくりが評価され、その後の海外展開の基礎となる。パキスタン、インド、インドネシア、ハンガリー等モータリゼーションが発展途上の国こそスズキの車が必要とされているとの考えのもと、インフラが未整備で多くの労苦を伴いながら各国に生産拠点を築いていった。これら海外展開の実績に目をとめた米・ゼネラルモータース社との業務提携(昭和56年)は鈴木氏にとっても大きな決断であったが、この提携に代表される長期的な経営戦略と現場・現物・現実の三現主義に代表される地に足の着いた経営こそが鈴木氏の真骨頂であろう。平成12年(2000)に鈴木氏は会長に「昇格」したが、東奔西走の日々は変わらない。 |
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