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| 百瀬晋六氏は長野県塩尻市の造り酒屋の次男として、大正8年にその生を受けた。昭和14年東京帝大(現・東大)工学部航空学科を経て、昭和17年に中島飛行機(株)に入社。しかし、入社後20日足らずで兵役が課せられ、海軍少尉技術仕官として海軍に入隊、海軍航空技術廠発動機部に配属され、ジェットエンジンやガスターンビンなどを、研究の課題として与えられた。当時、戦局はますます不利な状況となり、母体の中島飛行機に派遣されるかたちで、当時日本海軍最速の艦上偵察機「彩雲」のターボエンジン艤装を担当。その後、昭和19年には除隊して会社に籍が戻った。昭和20年、日本の敗戦によって当時所属していた、中島飛行機小泉製作所設計部員1000名ほどの、そのほとんどが離散したなかで、部課長職を含めて10名ほどが残留。百瀬氏はその当25才、この残留が航空機から自動車生産へ、つまり、軍需から民需への方向を切り替えるために必要な、強力な原動力となった。 この軍用から民生への転換の一例は、二輪車製造である。当時アメリカの駐留軍が日本に持ち込んでいた、落下傘部隊の常備機種であったスクーターの「パウエル」を参考に、在庫のあった「月光」の尾輪などを活用して、わずか半年で試作車を完成させ、昭和22年に発売されるやたちまち大評判となり、戦後のスクーター時代を拓いた、「ラビット」がそれである。 伊勢崎所在の富士重工業技術部、百瀬晋六氏が取り組んだのは、新規に計画していた乗用車の車体の開発であった。終戦の年から百瀬氏はバスの開発に取り組み、キャブオーバー型バスを開発。これによって戦前はボンネット型が主流であった日本のバス業界に、新風を巻き起こしたのであった。さらにその後も、日本発のフレームレス・リアエンジンバスを開発するなど、百瀬氏は実績を重ねて行った。 百瀬晋六という名前が一般に浸透したのは、NHKの「プロジェクトX」という番組において、スバル360の開発秘話が放映されてからのことであった。開発コードネーム「K-10」と名付けられたその車は、全長3m、全幅1.3mの寸法のなかに、大人4名を窮屈でなく乗車させるために、パッケージングの革新から始められた。その当時、舗装路などもまだ少なく砂利道が多い路面状況で、快適さを保ち、乗り心地の良い車を、造り上げる必要があった。エンジンはコンパクトな2ストローク、しかし360ccと決して強力とはいえないだけに、航空機造りの思想を随所に生かして当時の自動車の通念を超えて、グラム単位の重量軽減が行われたという。 こうした多くの難関をくぐり抜け完成された車は、スバル360と命名され、昭和33(1958)年3月3日に発表された。約1ヵ月後の展示会は、日本橋のデパートで開催されたが大評判となり、当時はまだ自家用車を持つなど、夢のまた夢であった庶民の間に、もしかしたら自分たちにも車を保有することが出来るのでは、そういう希望を与える存在となった。販売価格は当時としては画期的な42万5千円であった。その販売第一号車の納入先は、松下電器の創始者である松下幸之助氏宅であったという。 このスバル360という車は、従来の常識を覆す独創の固まりで、その点ではシトロエン2CVや、フォルクスワーゲン・ビートルにも比肩する。また庶民の生活のなかに、自動車保有の窓口を開いたという点では、戦前、戦後の時代の差こそあれ、アメリカの大衆に車を普及させ、モータリゼーションという社会現象を起こしたフォード・モデルTの存在に似ている。「まずいと感じたら、すぐ直すのが本当の技術者だ」という百瀬氏の下、改良、改善を重ね、スバル360は12年間販売を続けたが、日本車としてはこれは稀有のことである。ただし百瀬晋六氏の自動車への取り組みは、これが初めてではなかった。 |
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現代の自動車生産方式は、ほぼ4〜6年を周期としてモデルチェンジを繰り返す。つまり次期型モデルの計画には、その数年先の動向を予見する必要がある。従って製品計画の概要をまずまとめるのは、商品企画部門の役割りということになる。企画部門は綿密な調査データなどをもとに、将来の市場の動向や需要の変化を探り、製品のあるべき姿を模索し策定する。その設定を基軸として、設計、デザイン、実験、購買(部品調達)、生産管理などの部門が動き始める。製品像が定かに見える段階まで進んだところで、次には営業部門が活動を開始する。各社の体制によって若干の差異はあるが、概ねそのように業務は進行する。つまりはチームワークの所産であり、日本の自動車企業も、その周辺の協力企業の体制も、現在では強固なネットワークが築けるまでに発展し、成熟したということになる。 その日本の自動車産業の黎明期、つまりまだ日本の多くの企業が、敗戦の虚脱状態から抜け切れずに、将来の経営の方針すら定かに描きかねていた時代、信念を持ってそれまで類例のなかった、全く新しい種類の自動車造りに、率先して取り組んだ人たちがいた。まだ開発責任者などというような役職もなく、部品などの関連企業の協力体制なども、まだ充分に整ってなどいない時代であった。 開発責任者は、あるべき自動車像を模索し、技術者たちにその方向を示し、志(こころざし)を一にして強いリーダーシップを発揮し、敢然とそれに取り組む。求める結果が独創性の強いものであり、通念の範囲を逸脱するものであればある程に、技術部門だけでなく社内他部門全般への説得も不可欠となる。また、自動車の開発には努力だけでなく、当然に高額の資金の確保も必要となる。開発を取りまとめる一方で、経営者をも説得して、その納得も得なければならなかった。 自動車の黎明期は、折から上昇してきた国民経済を背景として、貨物車や営業用車が中心であった。既存の自動車需要を超えて自家用乗用車という、新たな需要を呼び、現在に至るまでの、発展の呼び水となった革新的な車。それこそがスバル360であり、その車造りの先頭に立ったのが百瀬晋六氏であった。草創期のそうした一人の技術者の牽引力が、日本の自動車産業界発展の糸口を開いた、といっても過言ではあるまい 戦後、早い段階から富士重工業は乗用車の開発を意図していた。しかし、当時の状況は自動車工学の文献ひとつの入手もままならず、百瀬氏は自動車工学情報を求めて、アメリカン・センターのCIE図書館まで行って資料を渉猟されたという。 その結果、昭和27年にはその試作計画が取りまとめられ、第一号試作車P-1の開発が開始された。この試作車の特長は、当時前例のなかったモノコック構造のボディ、前輪はウイッシュボーン式の独立懸架、複動式ダンパーを採用していた。百瀬氏を中心にした航空技術者の叡智を結集しての成果であった。エンジンは大宮富士工業で開発された、「L4-1型」を搭載していた。 しかし、航空機産業から自動車産業への新規参入を図るには、余りにも難事が多すぎた。小型乗用車の生産設備導入には、設備投資も含め莫大な資金を必要とし、販売網やサービス体制の構築などの課題が山積していた。前途を危ぶむメイン・バンクの支援が得られず、富士重工業の初代社長、北謙治氏(元戦時金融公庫理事)によって、「スバル1500」と命名された。その新鋭小型乗用車は、大きな資質と可能性を歴史のなかに残しながら、わずか20台余りを造ってその幕を閉じた。 ちなみに「スバル」とは牡牛座のプレアデス星団の和名、清少納言の「枕の草子」にも「星はすばる、ひこぼし・・・」などと述べられている。また、古くから「六連星=むつらぼし」とも呼ばれ、これをデザインしたマークが、スバル車を飾るエンブレムとなっている。 |
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| 百瀬晋六氏の業績は、スバル1500やスバル360の開発指揮に留まらない。昭和36年には、まだ四輪トラックの主流がボンネット型であった時代に、荷台が広くより合理的なキャブオーバー型「スバル サンバー」を、業界に先駆けて開発、販売している。 昭和40年には本格的な前輪駆動車「スバル1000」を開発し、同時期に発表された他社の同クラスの車が、後輪駆動であっただけに、これもまた大きな話題となった。当時は良好な等速ジョイントなどもまだ無かった時代で、開発には苦労されたという。 ラフな路面の状況をもいとわない四輪駆動車として、昭和46年には「スバルff-1 1300Gエステートバン4WD」を開発し、オンロード4WDの基礎を築き、翌年には世界に先駆けて4輪駆動の乗用車「スバル・レオーネ4WD」の量産化に成功している。また、その後に追従した他社の前輪駆動車が、ミニの先例どおりに、直列4気筒エンジンを、横置きに搭載したのに比べて、当初から前輪駆動方式を意図したスバルは既に、「スバル1000」から、縦置きに搭載してもオーバーハングの少ない、水平対向エンジンを採用している。これが後になっての四輪駆動に合理性と高効率をもたらした。すべて百瀬晋六氏の予見性に基づくものであったといえる。 この水平対向エンジンの構想は、はるか昔の昭和30年代半ばに、米国でラビット・スクーターを販売していたアメリカン・ラビット社からの提言により、百瀬部長を中心に取り組まれた、電気自動車の試作に端を発していたという。当時すでに大気汚染が問題視され始めたカリフォルニアでは、ゆくゆくは自動車も燃料電池に変わることも想定して、通常の鉛バッテリーによる電気自動車の試作が積極的に進められていた。 富士重工業では、P-1で試作した小型自動車の開発を諦めておらず、電気自動車をチャンスととらえたのである。電気自動車の実用性の乏しさから、小型車開発への移行を認められた百瀬氏は、基本構想のなかでFF(フロントエンジン・フロントドライブ方式)と水平対向エンジンに着目していたという。これが「スバル1000」で結実し、スバルのコアテクノロジーとして、現在のスバル レガシィやアウトバックの成功に繋がっている。また昭和43年に百瀬氏は、自動車技術会規格担当理事として、自動車規格の整備充実を図るなど、今日の規格標準化にも努力し自動車産業界にも大きく貢献されている。 百瀬氏の趣味は美術でありその造詣も深く、自身でも水彩画をよく描いていた。主として風景をテーマに、プロ級の画才を示す佳品が残されている。それだけではなく自宅の居間には、サイズの大きい美術全集を体裁よく収めるために、既存の家具に高さを合わせた、マホガニーの風合いにも似た銘木で作った、ガラス戸の書棚が置かれている。一見して専門の家具職が製作したかに見えるその書棚が、実は百瀬氏の手造りであったという。ホゾを切り精緻に組み上げられ、ニスまで塗られたたその成果は、氏が頭脳だけではなく手も動かせる人物であったことを今に伝えている。 概してリーダーというものは常に孤独である、先例のない未知の分野に突入するとき、万一の失敗の責任も自分で負わねばならない。夜更けて独り庭先に佇み、或いはテラスの椅子に腰を下ろし、ウイスキーのグラスを片手に星空を見上げながら、沈思黙考を続ける氏の後姿に対して、夫の健康を気遣う夫人は「少し量を控えられたら・・・」といいかけては、何もいえずにそのまま言葉を呑み込まれたという。 そうした夜の翌朝にも何時に変わらず氏の出社は早く、夫を見送り、ふと庭先に目をやると、庭先の樹木の陰に置き忘れたグラスが転がっていたりして、身内のものにもそれと語れぬ、隠された夫の心労の深さに思い至り、夫人は密かに心を痛められたという。 |