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| 東京 島屋で催されたクラウンの発表会。〈1955年1月〉 |
ロンドン-東京間における5万キロドライブに無事成功し、 挙母に到着したクラウン<1956年12月29日> |
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| アメリカ輸出第1陣のトヨペット・クラウン |
発売当時のトヨペット・クラウン・デラックスの新聞広告 |
| 第2次世界大戦が終結し、ようやく日本の工業が再開された頃の国産車は、欧・米国車などと違って、性能的にも信頼性も劣り、さらにまだ商用車と乗用車の多くが共通の部品によってつくられていた。しかし1951年(昭和26)末、トヨタは国産初の乗用車専用の自動車としてクラウンの開発をスタートした。トヨタの開発陣は、クラウン開発に先立ち全国各地を回り、新型車の対するユーザーのリサーチを実施。重要な顧客であったタクシー業界の世論調査の3分の2の賛同を得て、観音開きのドアなどの採用が決定された。 「初代クラウンの設計基本方針 1. アメリカンスタイルとし、明るく軽快な感じをだす。 2. ボディサイズは、小型車規格一杯とし、貧弱に見えないこと。 3. 乗り心地がよく、運転性能の優れた車とする。 4. タクシー用として格安な車とする。 5. 丈夫で、悪路に十分耐える車とする。 6. 最高速度は100キロメートルとする。*」 この頃はまだ日本の工業全体が脆弱(ぜいじゃく)であり、日本の自動車業界でも、自動車の開発・生産技術が進んでいた欧米の自動車メーカーとの提携が、盛んに行なわれていた。しかしトヨタは、時流に流されることなく、クラウンを自社で開発する道を選んだのである。 「本格的乗用車開発には時間が必要であったが、トヨタは1953年(昭和28)1月に自主開発を決め、自力で開発(クラウン)を進めた。他社は自主開発よりも外国技術の輸入を優先し、外国メーカーと技術提携して乗用車技術を取得する道を選んだ。*」 それまでのトヨタでは、シャシーとボディの設計を別に行ない、ボディは外部で生産し組み立てることが多かったが、クラウンからは自社の工場で生産することを決定、開発と同時に工場の生産設備などの充実がはかられた。そして3年に及ぶ開発期間をかけ、1954年(昭和29)末に純国産乗用車のトヨペット・クラウンRS型が完成した。 翌1955年(昭和30)の発表会においては、外国メーカーと提携をすることなく、独自の技術と研鑽(けんさん)によって開発・生産されたクラウンは、高い評価を得て自家用や営業用に広く愛用されることになった。 以後、ロンドン→東京間の5万kmに及ぶ距離を走破して国内外で賞賛を浴び、またオーストラリア一周モービルガスラリーでは日本車で初の参戦を果たして完走し、その耐久性を世界に示した。 さらにクラウンは、アメリカへ輸出したトヨタ最初の自動車として大きな礎を築くことになり、時代の変化と共に進化を続けながら、日本車の中では異例ともいえる50年以上もの歴史を誇るトヨタの看板車種に成長したのである。(小林謙一) *文献 『主査 中村健也』 トヨタ自動車株式会社 技術管理部発行 1999年刊より |