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| 川本信彦氏は1936年東京中野区の学者の家庭の長男として生まれる。63年3月、東北大学大学院精密工学研究科を経て、同年4月本田技術研究所に入社。 当時、モーターサイクルビジネスの隆盛と共に、国内各社が技術の優位性を証明する場としてレースが盛んに行われていた。ホンダは早くからこうしたレースに参加してその強さを発揮していた。また、59年からはイギリスのマン島TTレースに参戦、61年には125ccと250ccの両クラスのタイトルを手中にするという快挙を達成する。 ホンダが手がけたレーシングエンジンは、当時最先端といわれた多気筒、1気筒あたり4バルブ、ローラーベアリングや極めて精度の高い組立式クランクシャフトなどの採用に加え、巧みな吸排気系のチューニングによって、圧倒的な高回転、高出力を実現し、競争相手を陵駕する技術力を誇っていた。 当時、国内のモーターサイクルビジネスは極めて厳しい競争状態にあり、当初数十社あった2輪メーカーは、現在の4メーカーに集約されることになるが、ホンダはトップメーカーとしての地位を揺るぎないものとした時期でもある。 2輪の次は4輪の分野へ挑戦、62年には小型の極めて高性能なエンジンを搭載したプロトタイプのスポーツカーを発表。翌年からホンダ初の四輪スポーツカーとしてS500を売り出した。かくしてホンダは4輪のレースに打って出る。1.5リッターのフォーミュラに対して、当時ホンダの持っていたレーシングエンジンの中で最も大きなストローク・ボリュームの1気筒あたり125ccの12気筒エンジンの計画が立てられ、そのプロトタイプが250cc60度V型2気筒として設計され、テストベンチの上でエンジンの基本特性の研究が行われた。 |
![]() 1966年F2第7戦 ランス・サーキットにて サー・ジャック・ブラバム |
![]() 1973年12月発売 CIVIC(CVCC) |
| 入社した川本氏は、このレーシングエンジンの開発に携わっていく。S600、S800のエンジン開発、N360のエンジン開発にオーバーラップするように、F2エンジンの開発に携わり、その後の快進撃へとつながる。 66年には2年間の経験を基に、まったく新しく純粋なレーシングエンジンとして、F2エンジンを設計。初出場のグッドウッドグランプリで1−2フィニッシュを収め、以後12レース中11連勝を成し遂げた。このエンジンで氏は、自動車用レーシングエンジンの何たるかを知り、またそれを実証するという貴重な経験をする。1リッター4気筒、1気筒あたり4バルブ、組立式クランクシャフトはこれまでのホンダの公式通りであるが、初めてバルブスプリングをコイルスプリングに換えてトーションバー方式を採用し、1気筒250ccでも11,000回転まで回すことに耐えられる高回転エンジンを実現し、最高出力150馬力を達成したのである。 自動車では新たな分野への挑戦も大の総責任者となる。この間、CIVIC、ACCORD、PRELUDEなどのヒット車を生み出し、ホンダを4輪車の世界企業へと押し上げていく。 1978年には、休止していた4輪レースへの復帰を目指し、V6、2000ccのF2用エンジンの開発を開始する。80年のシーズン半ばからヨーロッパF2選手権に、エンジン供給という形で復帰し、翌81年にシリーズチャンピオンを獲得する。一方、F1では、83年にスピリットホンダで復帰を果たし、このシーズン最終戦で、ウィリアムズと組み、チャンピオンを目指す。念願のチャンピオンを86年に獲得。92年末の休止までに、ウィリアムズ、ロータスマクラーレンらとともに69勝をあげる。 |
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| 1983年 ウィリアムズとエンジン供給契約を締結 | 1992年 F1活動休止を決定。日本グランプリ(鈴鹿サーキット)で、関係者に感謝の意を表する。 |
| 川本氏は1990年6月に社長に就任、この頃時代は大きく変化する。東西冷戦の終結、日本のバブル経済の崩壊、急激な円高の進行、と激動の時代をむかえる。そして、91年の創業者本田宗一郎氏の逝去。翌92年、破竹の勢いで頂点をた。 成長拡大の過程で生じてきた開発、生産、販売間の壁を取り払い、お客様目線でマーケットインに徹した開発へ転換。シンプル、集中、スピードをスローガンに個人個人の役割・責任を明確にした、即断即決型の意思決定システムへの移行である。 また、輸出依存体質からの脱却を目指し、ホンダの国内自立を図るために、自ら先頭に立ち、商品競争力、コスト競争力、販売・サービス力を中心とした国内四輪強化策を推し進めた。これらの体質改革が功を奏し、94年の「オデッセイ」に続き、「CR−V」「ステップワゴン」などのクリエイティブムーバー群が大ヒットし、国内4輪の建て直しのきっかけをつくった。これらのクリエイティブムーバーのヒットに続けとばかりに、各社が次々と追随し現在登録乗用車の3割を占めるミニバンブームをつくりだした。 |
![]() 1994年10月 オデッセイ発表 | ![]() 1996年12月に発表された 世界初の人間型自律2足歩行ロボット「P2」 |
| 一方、環境問題でも川本氏は重要な役割を担っている。1960年代、大きな社会問題になった、光化学スモッグなどの公害問題に対し積極的に環境問題の解決に取り組み、72年にはCVCCエンジンを開発、当時不可能と言われていた米国マスキー法に世界で初めて適合。その後も「技術で生じた問題は技術で解決する」との精神で環境への取り組みを積極的に進めてきた。社長就任後、環境を経営の最重要課題の一つと位置づけ、社内の体制を整備し、地球環境問題に対する企業姿勢や取り組みの方向性を明文化した「Honda環境宣言」を92年に制定する。 EV(電気自動車)やULEV(超低公害車)、CNG車(天然ガス車)などのクリーンエアビークル、2輪車の4ストローク化に向けた取り組みなど製品領域のみならず、生産領域でも、エネルギー・資源の使用量削減や廃棄物のゼロエミッション化を進めた。こうしたホンダの環境への取り組みはグローバルに拡大し、進化を続ける一方、こうした地球環境保全に対する企業姿勢、具体的な取り組みは、自動車産業へ多大な貢献をもたらしている。 また、自立歩行人間型ロボットや航空機など、新たな分野を切り開く次世代モビリティの研究にも積極的に取り組む英断は、現在のASIMOや Hondajetというホンダらしい先進創造につながっている。川本氏は、本田宗一郎氏のもとで前社長の久米是志氏らと共に技術者として経験を積み、80年代には本田技術研究所で技術者として管理者として次の時代への萌芽・育成に全身全霊をかたむけ、90年代は経営者として「真のホンダらしさ」「グローバル企業ホンダ」への舵取りにあたった。 川本氏の足跡をたどり、氏の業績に「レーシングスピリット」、「ホンダイズム」の真髄をみるとともに、自主自立路線への方向性づけをしたリーダーシップと先見性、先進創造への飽くなきチャレンジ、地球との共生に対するこだわりなど、自動車産業の発展につながるさまざまな貢献に賛辞をおくるとともに、日本自動車殿堂に迎えることを、誇りに思う。 (国立科学博物館 理工学研究室 主任研究員 鈴木 一義) |
![]() 生産領域でのCO2排出抑制のため埼玉製作所に導入された、天然ガス・コ−ジェネレーションシステム |