1899年(明治32年)8月25日、栃木県河内郡明治村下多功に父龍英、母タケの三男として生まれる。1912年(明治45年)明治小学校を卒業後、当時の子弟の多くがそうであったように、奉公に出る。高等教育を受ける機会に恵まれなかったが、小堀氏は終始独学で社会人としての基礎的教養の涵養に励む。それは知識にとどまらず先人の知恵を修得し、人としての在るべき士道の哲理を求めつづけていたことが、氏の遺された記録から偲ばれる。自ら求め育んだ人生哲学は、やがて社会に貢献する数々の発明をもたらすことにつながる。

 1924年(大正13年)頃、大阪に出て、帝国通信社の記者として活躍した。1934年頃、大阪電気鉄道(略称大鉄、現近鉄)に嘱託として入社、当時の財界人との交流を深めながらの活躍がはじまる。
 1937年(昭和12年)大阪府下尼崎に大阪工機製作所を創設し、起重機製造工場の経営に乗り出す。41年、事業拡張のため工場を大阪市城東区に移し、軍用機のエンジン取り付け専用小型クレーンを開発など事業の発展に励む。戦後、日本の復興は石炭エネルギーにあるとの先見性のもと、炭鉱の機械化に乗り出すべく、大手の企業の参画のもとに炭鉱機械研究会を発足、自らその責任者を務め炭鉱採掘の機械化に腐心した。この時期、先端的な機械の開発に挑んだことにより、その後の発明家としての資質が養われ、日本の炭鉱事業の発展に多大なる貢献をすることになる。
 1957年(昭和32年)事業拡大と経営の安定基盤を固めるため、大同工業(本社石川県大聖寺)の資本参加を求め、社名を大同輸送機工業と改める。60年、石川島重工業(現石川島播磨重工業)の資本参加を求め、社名を関西輸送機と改め、実質的な石川島播磨重工業の系列会社となる。これが今日の石川島運輸機械(株)の母体となる。2年後、関西輸送機の一切の経営権を石川島播磨重工に譲る。
 1962年(昭和37年)住居を東京都品川区伊皿子に移し、新機種開発を目的とする株式会社G・I・Cを単身で設立。伊皿子坂の住まいの近くの玉鳳寺の境内にあった木造の一軒家を借り受け、G・I・C(グッドアイデアセンターの略)の仕事場とした。手始めとしてサンドイッチ自動製造機をはじめ数多くの特許を取得している。
エアバッグの作動実験(於:防衛庁航空医学実験隊、1965年12月)

 1964年(昭和39年)には独創的なアイデアのもと、自動車の安全ネットの開発を手始めとしてエアバッグの開発に着手。確たる技術的裏付けを得るために東京大学をはじめとして国公私大の教授陣や立川の防衛庁航空医学実験隊などの研究機関の協力を求め、開発資金に私財を投じ、企業家として新たな道を歩む。かくしてエアバッグ関連の特許は世界14カ国に及ぶ。衝突時の乗員保護のシステムは、衝撃加速度検出装置、エアバッグ(弾性防御袋)、気化ガス発生装置などをもって構成。エアバッグは運転席、助手席、後席に設け、側面のサイドエアバッグやルーフエアバッグもすでに考案していた。
 また、乗員のみに留まらず対歩行者安全装置にも拡げ、歩行者のバンパーへの接触を検出し、ボンネット上に倒れこむ前にポール状のエアバッグをネットと共に架長して、歩行者をすくい込む歩行者用エアバッグも考案している。エアバッグはマスコミにも注目され、NHK科学ドキュメンタリー「安全自動車をめざして」(1967年)で取り上げられている。
エアバッグの概念図(バックリング弾性体安全装置作動想定図)の例




世界主要国の数多くの特許を取得

16ミリフィルムに収められた実験記録や
テレビ放映フィルム

 当時の思い出について触れると、研究開発のお手伝いに伊皿子坂の仕事場に出入りしていた折、ニューヨークタイムズの記事を目にした。そこには「ビルの屋上から飛び降りることそれ自体は危険ではないが、硬い地面に衝突することに生命の危機がある。自動車の衝突が生命を奪うのではなく、人が硬い車内の構造物に激突することが問題なのである」(1964・11・1)との提言があった。まさに車体の衝突安全の原点である。氏のエアバッグの発明はこれに応えるものであったが、その時代の産業界や省庁の安全センスと世界に先駆ける英断に出会うことなく、やがて俎上から消え、これら特許はその期限を終える。エアバッグの実用化を小堀氏はついに見ることはなかった。
 先進技術の実用化は、先進であれば在るほど困難を伴う。「リスクを恐れて石橋をたたきに叩いて、叩き割ってから渡らなくてよかった、と皆で顔を見合わせて納得しあう体質・体制」を日本社会が卒業していれば、より多くの尊い命が救われていたことであろう。ともあれ、1980年代に入り米国そして西ドイツの一部の車両に搭載されるようになり、95年頃から急速に普及し、今日では乗用車にとって至極当然の安全装備になっている。
 小堀氏の創造的感性は既に述べた通りであるが、芸術的感性の豊かさにも天性のものがあった。当時関西財界人の社交クラブであった清交社短歌会における短歌は、「慈航集」と称した自作の和綴じの二冊の歌集に自筆でしたためられ遺されている。
 また、書画や陶磁器にもきわめて造詣が深く、とりわけ民芸には愛着を持っていた。1939年頃から晩年に至るまで民芸界には幅広い交友を持ち、棟方志功が世に出る下積みの頃から物心両面において良き支援者であり、理解者であった。陶芸においては河井寛次郎の作品を愛し、民芸運動創始者 柳宗悦、陶芸家浜田庄司との親交も長きに亘っていた。一方で、バーナドリーチの作品なども愛蔵していた。
 また、「清元」「長唄」「小唄」に代表される日本古来の歌曲を愛し、自らも師匠に付き、特に「清元」は最も愛していたといわれている。国立劇場や帝国劇場、帝国ホテルなどでの発表会に、その喉を披露する機会を数多く持ったことが記録されている。
  力強く己が営み拓くべし 
  貧しくともよし 
  正しくあれば
 遺された日記には随所にその人柄が偲ばれる信条がしたためられている。これはその一つである。
(芝浦工業大学名誉学長 名誉教授 工学博士 小口泰平)



小堀氏を生涯に亘って支えた奥方と共に



師匠を越える弟子と讃えられた「清元」菊寿会の恒例の披露
(於:帝国ホテル、昭和34年11月)